「昭和天皇は知っていた、原爆の秘密」
原子爆弾は我が国におとされた
それは核兵器を宣伝販売するための実験であった
という観点からかかれたのがこの本
「昭和天皇は知っていた、原爆の秘密」
現代史に
丁寧な資料の読み込みで、前後関係を明らかにし
その闇に迫っている
さて、このはなし、日本側の資料は、当然ながら、ほとんどが隠蔽されている
話の最初は、ゼロアワ-で、
東京ロ-ズが、テニアン島にきた
第509群飛行隊に話しかける、「帰りなさい」と
名指しで指摘されたこの秘密航空部隊は、原爆を投下する役目をもっていた
このとき、日本側からのメッセ-ジは、実験の準備が出来たということだったのだろう
さて、その実験のため、昭和天皇は第二総軍を編成する
建前上は、九州に上陸するであろう、米軍を迎え撃つため
司令部を広島に置く
食料も弾薬も武器もない兵隊を8万人も広島に集めたのである
そして、司令部は、爆心地から1300m離れた、双葉山に横穴を掘って作られた
鯉城近くに20人、司令部に20人、海外放送を聞く、二世達を集結させた
原爆の正確な投下時刻を知るためである
投下時間、司令部にいた人達は無傷、知らされなかった兵士と学徒動員兵たちは死んだ
第二総軍の人体実験はいまに至るまで隠されている
鯉城近くで、防諜していた20人は機密性が高い業務だったので
当然投下とともに、消滅した
第二総軍を人体実験に追い込んだ、現場指揮者、畑元帥は巣鴨にはいるが、当然無罪釈放される、情報を取り扱っていた有末中将は、戦後、ロビーのGHQ参謀二部に入り込み、日本人戦犯作りをする、もちろん大屋中佐もこれについていくのだ
広島と長崎についていうと
両方とも、投下前日、に、司令部が地域関係者を集め宴会を行っている
奇妙な一致、それは生き残りをさせる人間の最後の選別をしたのだとわかる
高野広島知事は前夜の宴席から、その夜のうちに、第二総軍の車で百数十キロ離れた、福山に移動させられている
かれが選別されたのは
投下後の混乱を収拾させるためである
さて長崎だ、長崎が投下場所に選ばれ
しかも、中心地ではないところに落とされた訳をしれば
実験だった事がよくわかる
長崎に落とされたものは、広島のウラン型ではなく、プルトニウム型
これの完成が遅れたため、天皇はポツダム宣言をすぐには受諾できなかった
二カ所に異なったタイプの原爆を落とさなくては、被爆実験はできないからだ
そしてこの実験が、天皇として戦犯起訴しない条件にもなっていた
三菱兵器工場と浦上地区には因縁がある
工場は真珠湾に使われた魚雷の製作所、浦上はカソリックの総本山なのである
長崎への投下は明らかに戦後処理をめざしたものである
なら広島に投下された直後に、ポツダム宣言受諾をすれば
9日の悲劇はおこらなかったはずなのに
10日に受諾はなされた、実験が終わったからである
この長崎の実験では、不思議なことがある
三菱兵器工場にあった、捕虜収容所である
ここに収容されていた米国兵捕虜は一人も亡くなっていない
スティムソンが米国兵捕虜がいるのを知ったのが7月末
投下日にはどこかに移されていた
被爆実験のため、被爆者達は、ほっておかれた
ここに昭和天皇の大罪をみる
8月10日、日本についたジュノ-博士は15トンの医薬品を調達し
広島に向かった
戦後、被爆者達がほっておかれたのは
日本赤十字が、援助必要はないと、拒否していたのは事実である
海外諸国は援助できなかった
マッカーサーもジュノ-博士も手を出せなかったのである
このときの日本赤十字の総裁が高松宮であることを忘れてはならない
1948年にABCCはモルモットたちを解剖し始める、最初の2年間で5592体解剖しているのだ。
2002年18000人がABCCの被爆実験追跡対象になっている
天皇の弟、高松宮が日本赤十字を動かさず、海外支援もことわったのは、原爆実験に協力することが昭和天皇の戦犯免除の必要項目だったためである
マッカーサーとジュノ-博士が動けなかったのは、トル-マンとスティムソンの上にいた、原爆マフィアの指示によることは間違いない
そしてこの歴史事実の隠蔽は、現在日本の悲劇にまでつながっている