「論理哲学論考」(1922)は彼が生前に出版した唯一の哲学書
1920年代ウィ-ンの時代背景とあいまって
論理実証主義者たちに多大な影響を与えた
いやそれどころか20世紀以降の哲学に影響を与えた

「ウィットゲンシュタインとウィ-ン学団」という本を持っていたが
この学団に属する人達が全世界にひろがり
論理実証主義を広げる
その大元となったのはこの本である
全体は100ペ-ジに満たない
すべて番号が付けられている
1は「世界とは、その場におこることのすべてである」
最後の
7には「語り得ぬことについては、沈黙しなくてはならない」
と結ばれている
この哲学書は誤解をうけやすいものだった
これで世界が規定され、すべてが語られる、式の思想になったものもある
もともとウィトゲンシュタインはそんな事はいっていない
言語で規定できる世界・命題については
語ることが出来ると言っているだけなのだ
この本をだしてのち彼はしばらくケンブリッヂから離れる
山村で小学校教師などしていたのだ
そして大学に復帰し再び彼の考えをまとめ始める
残念ながら1951年に亡くなってしまうのだが
弟子達によって1953年「哲学探究」が出版される
これを読むと
かれが論考から16年間、なにを考えていたのかがわかる
つまり
語ることの出来ない
言語では表せない世界について
哲学探究していたのだ
没後68年立って、ふりかえれば
この人の偉大さ重要性はますばかりである
かれが生前いっていたこと
大事なのは「哲学する事」
外食コンサルは時として
不幸な店の
美味しいモノを食べてしまうことがある
店の先行きは
良い方向に向かっているとは思えない
メニュ-ラインはメチャメチャ
要らないワインを並べ
価格は地域実勢と離れている
昔はかっこよく揃えたつもりの
白い椅子も汚れが目立つ
入った時間は
ノ-ゲスト
このお店になにを期待してお客さんは来るのか
期待しないから
来ないのか
地域の有名店として
ムック本に紹介されたのは
ほんの少し前なのに
期待しないで
何品か頼む
まったく期待していない
それなのに美味しい焼き物だった
店主はおそらく
腕に自信があるのだろう
しかし
なぜお店に客が来ないのかわかっていない
潰れるまでわからないかもしれない
不幸な店の美味しいモノはこころを惑わせる
入学検定料とは不可思議なものだ
なにも他大学に合わせて一律定額にする必要はない
この世界、独禁法違反の定価がまかりとおっている
江戸時代はしごくまともだった
まだ植民地化されてなかったというのもある
入試検定の原価はかなり低い
逆に言うと、利益率はかなり高いのだ
早稲田とか明治はこれで四十億もうける
かかっている経費はおそらく一割以下、だから丸儲け
地方私立大学のように募集定員の二倍以下の応募者なら
なにも三万五千円もとるひつようはない
五千円でいいのだ
金額は即改定できる
大東文化(馬鹿)大学みたいに応募がネットでできることを宣伝しなくてもいい、
いいきになって高額検定料がいつまでとれるか
考えてみれば、即わかるだろうに
わからないのは頭が悪いからか
鹿児島産のきぬさやが
ス-パ-にもう出ていた
さっそく買って来て筋を取る

マイ・フェア・レディの冒頭で
イライザ・ドウリトルが市場で絹さやを
生で食べるシ-ンがある
ロンドン市場の早朝シ-ンだ
生もいいが
玉子でとじてもいいし
味噌汁もいい
まさに春の味なのだ
きぬさやの夢のあおさをだどりけり 自作

一枚目は1938年7月2日
英国大使として赴任する父ジョ-ゼフと兄ジョ-と船上で、本来は2つ違いの
兄が大統領になるはずだったが、彼は第二次世界大戦で戦死してしまう

二枚目は1963年7月26日
ア-カ-ンソ-州のボ-イズネ-ション代表団のひとりとしてJFKと握手しているのは、
若き日のビル・クリントン

三枚目は1953年9月12日
36歳の上院議員と24歳のカトリックの美女の結婚は父ジョ-ゼフ演出の政略結婚であったことはいうまでもない

四枚目は1958年3月25日
生後4ヶ月のキャロライン(前駐日大使)を抱くケネディ

五枚目は1963年11月22日午前11時50分
テキサス州ダラス、ラブ・フィ-ルド空港
死のパレ-ドの開始
この若き大統領がこの時期米国に登場したことで
米国のよどんだ空気は一掃されたのは間違いない
彼がリベラルになったのは大統領選を目指してから後の事
上院議員時代はコチコチの保守派
そして選挙は多額の金が父ジョ-ゼフから出資され
イメ-ジとメディアを上手く使い、そのうえドブ板までやった
優れた選挙戦だった、しかし多くの虚構もここで作られた
若さを売り物にしていたのに、実際の体がボロボロだった事も知っておかねばならない、
つまり二期目を全うする、体力は残っていなかった
主には脊柱の損傷による
家柄とか血筋がない、中世がない米国民にとって、この虚構の持つ意味は
われわれ日本人が考えるよりも大きい
研究すべき対象なのだと思う
主治医が藪医者で、覚醒剤を大量投与されていたのは
ヒットラ-と同じ状態だったのに気がつき
JFK伝記の最後を読み終わりました
そこには、アメリカの光りと影を結んだ偉大な男はいませんでした

1963年11月22日に亡くなった後
神話はジャクリ-ンによって作られていきました
その日の午後2時38分、副大統領リンドン・B・ジョンソンが
エァフォ-スワンの中で宣誓し第36代大統領に就任しました
ケネディの遺体と共にホワイトハウスに戻ったジャクリ-ンは
葬儀を仕切ります
まずはリンカ-ンと同じようにホワイトハウスの東の間に棺を収めます
棺の台もリンカ-ンの棺を乗せたのと同じものです
遺体を埋葬する場所も、故郷ではなく、ア-リントン墓地に定めます
東の間の写真は1963年11月24日のものです

大聖堂での礼拝が終わり棺が大聖堂の外に運び出されると、ジャクリ-ンが幼いジョンに囁くと、ジョンは列を離れ、父親の棺に向かい敬礼したのです。
大統領としての在位期間はわずか2年10ヶ月でした、
冷静に考えれば目立った功績は挙げていません
それどころか最近になって、在任期間中の南ベトナム空爆、キュ-バ計画等等いろんな失策が明らかになってきているのに
なぜこんなに人気が続いているのか不思議ではありませんか

暗殺に関してはジョンソン大統領が時の最高裁判長ア-ル・ウォ-レンに委員会を立ち上げ、調査を命じました。
そして1964年9月ウォ-レン委員会はオズワルドの単独犯と決めつける報告書をだしています(誰も信じていません)
はなしが動いたのはその5年後の事でした
1969年ニュ-オリンズの地方検事、ジム・ギャリクソンがクレイショウを告訴したのです。事業家クレイ・ショウは無罪になりましたが、証拠としてあげられたウォ-レン委員会の資料が矛盾点だらけだったことが白日のもとに晒される事になります。

そしてその裁判をもとに、オリバ-スト-ン監督が作った映画が「JFK」(1991年)です、ジム・ギャリクソンをケビン・コスナ-が演じています。なかなかよく出来た映画で僕も封切りの時観ました。
さて、ア-リントン墓地に埋葬されたのちのケネディ王国の人々ですが
栄光とはほどとおくなっていきます
実弟のロバート・ケネディは、ケネディ政権とその後のジョンソン政権下で司法長官を務め。
1968年の大統領選挙の予備選中にカリフォルニア州で暗殺されます。
末弟のエドワード・ケネディは、1969年に起こした人身事故「チャパキディック事件」におけるスキャンダルでその後の2回の大統領候補の座を棒に振りますが、民主党リベラル派の重鎮として長期にわたり上院議員を務め、2008年の大統領選挙でバラク・オバマの勝利に大きな貢献をし。2009年に死去します。
妹のパトリシアは、イギリス人俳優でフランク・シナトラ率いる「シナトラ一家(ラット・パック)」の大幹部的存在のピーター・ローフォードと結婚(1966年に離婚)。
息子のジョン・F・ケネディJr.は、アシェット・フィリパッキ・メディアから政治雑誌『ジョージ』を出すなどしたものの、1999年に自家用機を操縦して別荘へ向かう途中、大西洋上で空間識失調から墜落し不慮の死を遂げています。
娘のキャロライン・ケネディは著作家、弁護士。バラク・オバマの大統領選挙戦で大きな貢献をした。ヒラリー・クリントンの後のニューヨークの上院議員の候補だったが、私的理由で辞退し。 2013年11月12日にオバマ政権の駐日アメリカ合衆国大使に就任しています。
ジャクリ-ンはご存じの様に、ケネディ存命中から付き合っていたギリシャの海運王オナシスと再婚します、実母のいいつけ「お金持ちと結婚しなさい」を忠実に守ったわけです。
JFKを知る事はアメリカが抱えている病巣を知る事でも有ります
かれは息切れしつつあった50年代の米国にカンフル剤を打つことに成功したのです、中味が劇薬であろうとなかろうと、米国は一時的に息を吹き返すことはできたわけですから
この時期は
寒桜か桃の花の枝を求める
蕾のまま生けておくと
一週間で満開になり
散るまでに一週間は楽しめる
今年はなぜか見当たらなかった
今日の天気予想は雪
昨日三寒四温の話しをきいた
季節的にはいい話題なのだが
気象統計によると
過去20年間で一回だけらしい

まあそういえば
今日は「建国記念日」
この日になったのは明治期に設定された紀元節の復活を
昭和天皇が強く望んだためである
神武天皇の即位日
という空想を実体化するため多額の天皇マネ-が使われた
建国記念日審議会10人のうち3人のみ反対派を入れる
中央調査社がやった世論調査にも操作の金がつぎこまれ
1966年に制定された
神武天皇が古事記では137歳、日本書紀では127歳まで生存したとあるのは、中国の正史「魏志倭人伝」に合わせたためなのだが。第一天武が「天皇」を名乗るまでは、豪族共同体の長は「大王」なのだから。
ということで
この国にはなかなか春は来ない
ワインオ-ブナ-
黄色いやつは指先の大きさしか無い
沢山買ったのだが
昔は花見の時期
これが活躍した
ワインをあけるには格好いいが
専用のものがいい
赤い方は無印良品もの
だから
そんなにたかいものではない
大昔
ハンドルが水牛の角の物を持っていた
まあ
うん万円はしたとおもうが
数回使って無くした
ワインオ-ブナ-の無いレストランなんか行かないよ