人気ブログランキング | 話題のタグを見る
ブログトップ

コンサルの独り言

kongojia.exblog.jp

マ-ケテイング・コンサルタントの独白です。

聖徳太子はなぜ出現したのか/玉ころがし

日本人は聖徳太子が好きだ
しかし
この虚像がいかにして作られたのかは知らない

まずは「日本書紀」というのは正史ではない
藤原氏のプロパガンダの宣伝書という位置づけがただしいだろう
さて
なぜ聖徳太子が生まれたのか

ビックコミックに「天智と天武」というコミックがある
これがわかりやすく書いてある
時代は
聖徳太子はなぜ出現したのか/玉ころがし_d0202960_1243136.png


天智天皇と天武天皇、母親は同じでも、父親は違う
天武の父親は、蘇我入鹿

我々は歴史を学ぶとき、中大兄の王子、のちの天智天皇の大化の改新を学ぶ
しかし、このコミックでは、天智は悪役
腹心の中臣の鎌足は新羅の王子で日本に帰化した男と書かれている
そしてその子孫、藤原不比等がでっちあげたのが、日本書紀だという

さらに書き換えをせざるをえなかったのは
聖武天皇、光明皇后の時、不比等の息子で光明皇后の兄たち、四人が次々と変死する
その原因が蘇我入鹿にあることを、指摘したのが、僧、行信、天智天皇のひ孫

我が国の歴史上で天皇のおくり名、に徳が付くのは、怨霊にならないためなのである
聖徳太子はなぜ出現したのか/玉ころがし_d0202960_12562880.jpg

その最初の例が「聖徳」なのだ
聖徳太子はなぜ出現したのか/玉ころがし_d0202960_137454.jpg


聖徳太子という呼称は生前にはなく、没後100年以上を経て天平勝宝3年(751年)に編纂された『懐風藻』が初出と言われる。そして、平安時代に成立した史書である『日本三代実録[1]』『大鏡』『東大寺要録』『水鏡』等はいずれも「聖徳太子」と記載し、「厩戸」「豐聰耳」などの表記は見えないため、遅くともこの時期には「聖徳太子」の名が一般的な呼称となっていたことが伺える。
以上ウィキペディアから引用

厩戸(うまやど)、厩戸の前で出生したことによるとのはなしは、中国にまできていた、景教、キリスト教、の話をなぞったとおもわれる

さて
なによりも
天皇という権威は
玉ころがしの対象であり
古から何回も繰り返し行われてきた
そして、そのことを隠すため、為政者はいろんなことをしてきた

この時代天皇は大王だったが権力はない
しかし権威はあった、そうなってしまったのは
天智が、新羅の王子を臣下にしたからである
中臣の鎌足、藤原鎌足である
息子の不比等の時代に、天皇は藤原家のコントロール下に入った

この政治権威は「玉ころがし」という手法で、
ずっと利用されてきた
明治天皇取り換え説というのは
その延長線上にある
ますます信憑性を帯びてきた
by kongojiamarron | 2016-04-12 02:30 | 風景 | Comments(0)

by kongojiamarron